タイ旅行記 ―旅立ち― 夫の異常な愛情または私は如何にしてムエタイを習おうと決意したか

海外旅行というものは金持ちのすることだと思っていた。鞄に札束を入れて歩くような特殊な人のすることで、自分には全く関係のないことだと本気で思っていた。37歳の夏、ふと思い立ってひとりでタイに行くまでは。

正社員になって最初の年、となり町に遊びに行くようなノリで先輩や上司が海外に出るのを、私は驚きをもって眺めていた。それまで働いたブラック企業では、新婚旅行でもない限り、海外に行く人なんて1人もいなかった。

8月、うまい具合にお盆を避けて夏休みをとることができた。どう過ごそうか考えた時、海外旅行という選択肢が急に目の前に現れた。「まとまったお金」と「まとまった休み」、それまでの人生で決して揃うことのなかったその2つを、ついに揃えることができたのだ。

さあ、どこに行こう。予算を考えると東南アジア。自分の名前に「アユ」が入っているから、初めての海外旅行はアユタヤがいいな。タイにしよう! 遺跡を見て、トムヤムクンを食べて、本場のムエタイを観戦するんだ。

夫に「夏休みはタイに行くことにした」と伝えた。夫は「はあ?突然なんなの? お前のそういうところが本当に嫌い。もう喋りたくない」とそっぽを向いた。夫に構わず、着々と準備を進めた。パスポートを取り、必要な物をそろえる。キャリーバッグは買わないことにした。登山用の大きなザックがあるし、人生で数回しか使わないものを置いておくほど私の家は広くない。

格安旅行会社で飛行機とホテルだけのひとり旅プランを申し込む。8万円の決済。思ったより全然安い。こんなことならもっと早く行けばよかった…とつぶやきかけて、今後安定した収入が得られるという安心感があってやっとこの決断ができたのだ、と思い直す。

夏休みに入る数日前、「本当にタイに行くのか?」と夫が言い出した。

「行くよ」「勝手に海外行くとか、どういうつもりなんだよ!?」夫は激怒していた。「勝手に、じゃないよ。最初に行くって報告したし、その時に喋りたくないと言われたから細かい説明はしなかっただけ」「ふざけるなよ!」

5時間に渡る長い話し合いが始まった。私は正座を強要され、謝るように言われた。なぜ謝らないといけないのか、意味が分からなかった。夫の言い分としては、「妻という立場でひとりで海外旅行するなどありえない」ということだった。私はこう返した。「私にはそういった価値観はない。百歩譲ってその意見を受け入れたとしても、すでに結婚生活は破綻しており、もはや私はあなたの妻ではない。なんならこの機会に離婚してほしい」。

籍を入れて半年。夫は毎日、深夜まで帰ってこなかった。「仕事が忙しいんだからしょうがないだろ」と本人は言っていたが、そうでないことは分かっていた。「帰らないことだってできるのに、遅くはなるけどちゃんと毎日帰ってるだろ、それは俺の愛なんだよ。」

愛とはなんだろう? 結婚してからそれまで、私たちは1回もセックスをしていなかった。会話もほとんどなかった。そもそも、家にほとんどいないのだから。生活費として入れてもらうお金は月に8万円程度。それに私のお金を足して、家賃や光熱費、消耗品費を払う。養ってもらっていると言えるほどの金額でもない。夫婦でいる意味を全く感じられなかったので、「あなたと別れて、私はタイに行く」と宣言した。

話し合いは喧嘩になり、激しい肉弾戦となった。夫は私を突き飛ばし、床に倒れ込んだ私に向かって「拳で殴ってないから暴力じゃない」と言い捨てた。

タイに行ったら本場のムエタイを観戦しようと思ってたけど、やっぱりやめよう。ムエタイを習おう! タイ情報を調べているうちに見つけた体験入会できるムエタイジムのことを考えながら起き上がり、冷静に夫のアゴを狙う。どんな大男もアゴを殴って脳を揺らせば足がふらついて立てなくなり、勝てる。ボクシング漫画で覚えた知識だ。

アッパーが夫のアゴに炸裂することはなかったけれど、私が最後まで折れなかったので、喧嘩は最終的に有耶無耶になった。始まったのが夜だったのに、終わるころには外はうっすら明るくなっていた。2人ともクタクタに疲れ果てて、めちゃくちゃになった部屋の中で、茫然と座り込んでいた。

「はぁ…、やっぱり行くのかよ、タイに」

「行くよ! タイに!」

こうして私はタイに旅立った。